昭和42年01月30日 夜の御理解
今朝のご理解に信心は一生が修行じゃと、信心は山登りも同じぞと、仰るような、そこんところだけを頂きますと本当に信心させて頂いておりゃもう楽なことはない。もうずっとが苦労が続いておる、続くのだと。山登るのに何時もきついのだという風に頂いてはならない。けれども多くのお道の信奉者にこりゃ限らん信心者の中に、こういう修行を何時まで続けなければならんのだろうかといったような。
まぁいうなら暗澹とした、修行を続けておる人があるだろうと。修行に喜びも楽しみも、希望もない。そういうような信心ではならない、というようなご理解を頂いておるわけですね。だからこういうようなあり方にならせて頂けば、修行が楽しゅうもなりゃ、有り難うもなり、同時に希望も持てて、それこそもう一生これが続いても、いよいよ有り難いことだと感じれれるような。
その信心にはこういうような信心させてもらわなきゃならんといったような御理解頂きました。中に、その例えば修行のことでも、一つのことが成就すれば、もう一つの事の修行が次からもう始められておると。ですから、信心辛抱梅の花。やがてうぐいす来てとまる、というようにその信心しておれば必ず一遍はうぐいすが来てとまるようなことがあると。というようなおかげを頂いても、もう次には信心辛抱のところがあり。
うぐいすが来て止まっておるところがあり、その花が散ってた寂しさの時があり、又はそれが実る時の状態があるのだと。いうならそれを厳密に言うと、一日の中にでもそれがあるのだと、というような意味の事を頂いておったんですが、今日私一日の事を自分で思うて見ると確かに、一日の中にもそれがあるなぉとこう思うのです。今日、夕べ善導寺から電話がかかっておりましてから。
私のあの検定試験の問題にでも出るような問題がありましてから、診断書やら又一年間養生をしたその養生の報告を提出するようにということでございましたから、今日それを持ってまいりましてから、あの親先生とお話を色々させて頂いたんですけれども、もうなんち言うでしょうかね、まぁそげんせからしゅうごたんなら、もう私は又椛目のその教会問題とか、私が教師になることが。
ういう風に問題を問題にもならないことを問題にする人達がある間は、私はもう一時ばっかしならもう教師になりますめと。まぁ言いたいような事柄をじっと聞かせて頂きながらですね、はーここが信心辛抱だなぁと思うたんです。かと思うと今日は、ちょうどお昼下がろうとしよりましたら、久富さん達が親子で、ちょうどあのお湿りの中に御参りして見えられました。
それで一緒に御食事でも頂かせて頂いてから、お湿りはあっとるし、気持ちはゆっくりしてコタツの、入らせて頂きながらしばらくおかげ頂きましょうというて、それこそ極楽のようなあんまどもをしてもらうというところもあります。これなんかはもう梅の花が咲いて、うぐいすが来て止まっておるような感じ。何時も久富さんが昼頃、そのゆっくりされる事も、又御参りしてくることもめったにないのに。
そういうような例えば私がおかげを受けておるということは、ちょうどそれこそ、咲いた梅の花にうぐいすが来て止まっておるような感じのところである。かと言うと、今日は夕方、私丁度御食事前でした。そこにもうけただましゅう、あの栄四郎泣きよりますから、どうしたかと思うて覗いたところがその、頭からうどんの炊きよるとばかぶっとる。家内はやっぱり鍋にかけてあるうどんの炊きよるとを。
どんぶりについでこっち向いたのと、栄四郎がいすから降りてこう頭を持っていったのが一緒にぶつかってから、この頭にかけて。あそれがもうそのいた、あのひやひやするもんですからもうじだんだ踏んで泣きよるけども私考えさせてもらってから、本当にあの神乍らなお繰り合わせ頂いておるなぁと私、先程も久富先生が、今日は私のじっちゃまと頭そる、頭をつんでから。
栄四郎さんもこうもうほいとごつなごつなっちゃるけん、つんであげようと思うけれども、おんなさらんじゃったち。つんどったら、本当に私は皮がべろべろむけるようなことじゃったろう思うです。又それが顔にかかっとたら、そりゃほんなお父さんのごたる顔に傷が出来るとじゃったのに、ち私言うた事でした。けれども、こうしとる時ですからほんな、頭はいっぱいこう伸びております。
それにこうかかったのですから、まぁさほどに、まぁしばらくは泣きよりました、痛い、そのと言うてから。けれども、まぁ大難を小難でおかげを頂いたと言うことなんかは、これは丁度実った梅が落ちて、散ってなにかこう、梅としそとがなじんで行くような感じでございます。一日の中にでも、はっと思うようなこともありゃです、本当にこう極楽じゃなかろうかと思うような事もありゃ、本当にぐっとやはり辛抱しなければ。
いわば大変なそこに、岐路になってくると、おかげを頂く頂かないの岐路になると。私その時に善導寺でもです、もう先生あのようございます私はもう、そげんまだ私の方のことを問題にする人達があるなら、ならこれはしばらくもう見合わせて下さいと言いたい思いがしたんです。そしたら神様から、あのお弁当なんかに使いますこう、ひろはでこう切ったね、お寿司なんかにはさんであるでしょう。
あのひろはで切ったやつ。こう仕切りのところにね、御漬物やら、生くさやらする時にこう中に、はさんであるでしょう。あれをこう頂きますもん。ははぁここんところもこういうような、神様のご都合だなぁと思うてから、黙って聞かせて頂いておったんですけれどもですね。やはり今日のそこが、まぁ言うならば、信心辛抱のところであったろうとこう思うのです。
ように一日の内にでもそれなんです、そして一日ひっくるめて頂かせて頂いて、ほんに結構なおかげを頂きましたでもありゃ、本当に結構な修行をさせて頂きましたでもありゃ、本当に大難を小難におまつり替え頂きまして有り難うございます。でいわばあるのでございます。ですから本当に、あの信心修行というものはです、いよいよ、何時も修行精神をおおせいにしてです、しかもその信心修行にはです、喜び、楽しみ、希望と。山登りがきついということじゃない。
七合目よりも八合目。八合目よりも九合目、頂上という様にです、それを極めていくところの楽しみというものがです、ただじっと黙々として山登りから山登りを続けておらんならんというなら、こんなじゅつないなことはないです。けどもそこには、そこにおかげの頂けれる場というものがあることはです、楽しいというところまで信心を分からせて頂けねばならんと思うですね。
どうぞ。